第3章 3つの顔

 

<第1節 戦国大名としての大友宗麟>

ここでは宗麟の武器や武具とともに家臣など戦乱の世を生きた戦国大名としての大友宗麟の一面を見ていきましょう

骨喰藤四郎

刀

大友家代々の宝刀に「骨喰藤四郎」という名刀があります。 これは1336年に足利尊氏が九州に下ったとき、大友氏8代氏時が忠誓の証として献上したものです。 異名の「骨喰」とは、「対面し斬るまねをするだけで骨まで砕かれるほどの凄まじい切れ味のためについた」と言われています。 大友宗麟は13代将軍足利義輝を謀殺した松永久秀の手に渡り秘蔵されていたこの刀を使者を派遣して 「大友家祖先伝来の家宝であるので譲り受けたい」と申し入れ、久秀は金銀3000両で手放すことになりました。 その後、豊臣秀吉の知るところとなり「昔より国を治めるものは名誉の剣を持つとされます。 ぜひその骨喰の刀を所望したい」と、問い合わせました。義統は早速使者を派遣して刀を進上したところ、秀吉は大変喜んだということです。 この刀は江戸時代に徳川将軍家にわたり明治維新後には豊国神社の所有となっています。

白檀塗浅葱糸威腹巻

刀

大友宗麟が由原八幡宮に奉納したと言われる「白檀塗浅葱糸威腹巻」は 機能美とともに甲冑の伝統を破ろうとする斬新さや西洋を意識したモダンな作りを取り入れた本小札の腹巻です。 九州六カ国の覇者として君臨した名門大友家投手大友宗麟の威厳を示すに相応しい甲冑といえます。 「白檀塗」とは金箔、銀箔、金泥などを施した上に透き漆をかけ、下に描かれた文様などが艶やかな飴色の表面となる漆技法の一つです。 また「浅葱糸厳」とは鎧の威し糸の色が「緑がかった薄い藍色」です。

フランキ砲

1576年、宗麟がポルトガル領インドの総督に依頼した輸入品の中に、火縄銃や硝石とともに「フランキ砲」と呼ばれていた」大砲が含まれていました。 宗麟は大変喜びこの大砲を「国崩」と命名しました。名の由来は発達した際に出る大音響とその威力が敵の国を崩すほどだということからです。 「大友興廃記」によると、驚いた島津軍は撤退したと記されています。

この大砲のおかげで周りの大名は皆わしのことを恐れるようになったのじゃ。

さて次は大友宗麟を支えた家来の中でも特別な役職である宿老(加判衆)についてみていこう

宿老(加判衆)

館につとめる者の中で宿老は最も重要な地位でした。大友氏が意思決定を下す上で宿老はその過程に参画し、 決定事項を家臣に伝達する文章を連盟で発給するなど、家臣団のトップに位置し、最低毎月二日(1日、15日) は館に参上していました。宗麟が家督を継ぐ以前は府内への移住は原則でしたが、以降はこれを破る宿老もいました。 定員は目安は6~5人でしたが、厳密には決まっていなかったようです。

最後に宗麟の誇る水軍についてみてみよう

大友水軍

豊後には海岸部を生活基盤とする浦部衆、海部衆がいました。彼らを大友水軍と呼びます。歴代の大友氏頭首は莫大な富をもたらす海外貿易を重視してきました。 そんな宗麟は水軍の重要性を感じていました。特に重用した海部衆、若林氏は初見は十二代持直の代である15世紀前半からです。 毛利軍を九州から駆逐する際、若林水軍は大活躍をしました。 また、水軍=海賊というイメージがありますが、「大友義鎮感状」から判断しても、そのような行為をしていなかったようです。

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