第1章 大友氏と繁栄

第1節 大友氏の発祥と滅亡

ここでは大友家の発祥を見ていきます。

大友氏の発祥
大友氏の1代目は大友能直氏です。大友能直氏は、元々は相模の国(現在の神奈川県)出身の御家人として鎌倉幕府に仕えていました。しかし、元々彼は古庄能直と名乗っていましたが、ある時から、彼は父親の近藤能成と同じ名字である近藤能直と名乗るようになりました。その後、相模国足柄上郡大友郷という能直の母の生まれ故郷の領地を継いで、大友能直と名乗りました。これが、大友氏の発祥です。
大友氏の衰退
大友家は第21代当主である大友宗麟が治めていた1560年頃に絶頂期を迎えるが、1600年頃には全ての領地を失ってしまいました。 この衰退の要因は、主に耳川の戦いによるものです。
耳川の戦いとは... 九州の関ヶ原とよばれる、大友家と島津家の間で起きた戦です。この戦いで大友家はぼろ負けで、有力な家臣を失い、さらには九州の覇権を島津に奪われることとなってしまいました。
さらに大友氏にとって苦難が続き、ここぞとばかりに肥前(現在の佐賀県)の龍造寺隆信が以前の領地の返還を要求し、筑前(現在の福岡県西部)で立ち上がります。どうしようもなく従った大友宗麟ですが、部下たちの信用(特に外様大名)は当然薄れましたが、その後しばらくは、島津と龍造寺が争っていたため、大友家はなんとか存続することができました。しばらくすると、龍造寺が敗れると、とたんに島津は大友を攻めてきました。そこで、大友は秀吉に援軍を頼みました。(宗麟がわざわざ大阪城まで行ったそうです)その後、秀吉が九州を制圧し、大友家は豊後一国を安堵され、なんとか存続することができました。
コラム 大友家とキリスト教

大友宗麟はキリスト教を信じていました。そして、南蛮貿易で莫大な利益を手に入れました。しかし、皮肉なことに、衰退はその信教によるものでした。
彼がそもそも耳川の戦いに参加したのは、日向(宮崎)にキリスト教王国を作るためでした。さらに、その信仰深さは家臣団と軋轢を生み、戦をする前から全体の士気を下げてしまいました。

大名としての大友家の滅亡
秀吉の援助により一旦はなんとか存続できた大友氏ですが、大名としての大友家はすぐに滅亡してしまいます。朝鮮出兵の時に、敵前逃亡したためです。豊臣秀吉は大変ご立腹で、大友義鎮を処罰として殺そうとしました。しかし、豊臣秀吉は考え直したのか、大友家は名家だから、、、と思い領土の没収にとどめ、死罪は許しました。ここで、大名としての大友家は、消滅したのです。
コラム 細川護煕と大友家

大友家はその後、男児の血筋は途絶えてしまいました。しかし、宗麟の娘、ジュスタは大友家の家臣、清田鎮忠と婚約し、娘をもうけます。その娘がさらに娘をもうけ、さらにその娘(幾知といいます)が当時の肥後の大名、細川忠興の側室となります。その二人の孫の細川斉茲が8代当主となりました。そして細川元首相は細川家18代当主でもあるので、そのまま血の繋がりがあるそうです。

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